ここ数日、もやもやした気持ちで読んでいるものがあります。
イオンシネマでの車いす対応問題
ご存じない方もいらっしゃるかと思いますので
昨日の
NEWS23の記事をリンクするとともに
概要をかいつまんで説明すると
①車いすの障がい者がイオンシネマのプレミアムシートで映画鑑賞後の体験をXに投稿
②プレミアムシートは通常席とは異なるラグジュアリーで快適な特別価格の席だが、
その席に至るまでは劇場の特性上段差があり、車いす者が単独では行動できず、
かつ、その席の横に着いてからも、車いす→プレミアムシートへの移乗も介助が必要
③映画館の多くは「車いす専用席」があるが、このX投稿者は、このバリアフリー設備を使用せず、これまでも同映画館で複数回プレミアムシートを利用した経験がある。
これらの介助は、X投稿者に随伴した介助者ではなく映画館の職員が複数人で行っていた。
④今回これまで同様に映画館職員の介助を受けプレミアムシートで映画鑑賞した後に、
映画館支配人らしき人から
「次回からは別の映画館を利用されては?」との提案を受け、X投稿者は悲しい気分になった。
⑤以上のような経緯をXに投稿され、イオングループは映画館職員の対応不備を詫びた。
⑥このような情報がニュースにまでなり、巷ではいろいろな意見が出ている。
・プレミアムシートへの移乗介助対応はサービスの範疇を超えたもので、映画館職員の意見は当然のものである。
・それなのにイオンが組織として謝罪した行為は安易であり、従業員を守っていないことに問題がある・
・Xに投稿した車いす利用の障がい者は、「介助されて当たり前」と思っているのか?傲慢すぎる
・健常者も障がい者を助けたい気持ちはあるが、感謝する気持ちがないなら、助けたくなくなる
・障がい者も健常者と同じように生活できる権利があるのだから、そのような権利が実現できる世の中になるべき などなど
この記事とそれに付随するヤフコメとか読んでて、モヤモヤが膨らむばかり
障がい者は健常者と違って、いろいろな肉体的制限があるのだから、それを補うために健常者の手を借りる必要が生じるのは、現状のハード整備状況では「いたしかたない」のが現実
理想は、障がい者も健常者と同じく、他人の介助なしで生活できるようなハード環境が整えられていて、他人の手を借りることなく生活できれば、まさにバリアフリー→ノーマライゼーションの世界だし、誰もが幸せに生きることができるユートピアだ。
このX投稿者の目指すところは、その理想獲得のために言っているのか?
それとも、健常者は障がい者のために手を差し伸べることか当然だと言いたいのか?
「障がい者だから」と下に見られ哀れみを持たれるのは嫌、そんな気持ちが根底にあるのは想像できる。
自分だって今は健常者の範囲に入る肉体状況だけど、いつ障がい者になるかわからない
その時に、「他人の世話にはなりたくない」という気持ちになる。
それは、他人の世話になることに「申し訳ない」という気持ちがあるから。
だけど、世話になったときは、その助けに感謝の気持ちは忘れない。
障がいがある人にとっては、望んでそういう境遇になった訳でも、自業自得でそうなったわけでもないのに「申し訳ない」という気持ちになるのは辛いことだし、
「健常者であれば、そんな惨めな気持ちを抱えることなく生きているのに、障がい者にとっては不公平な世の中だ」と思いたくなるのは分かる気がする。
でもね…
このX投稿者(車いす利用の障がい者)の考えは、私には理解できない。
この人は、五体満足の人は皆「健常者」とでも思っているのだろうか?
この人は、五体満足の健常者は皆、誰の世話にもならず助けられることもなく自立して生きているとでも思っているのだろうか?
この人は、五体満足の健常者は、障がい者のノーマライゼーション実現のために、時間・肉体・精神的に我慢や犠牲を払わなければならないとでも思っているのか?
もしそう思っているのなら、なぜそんな投稿をしたのかの趣旨は理解できるけど、
それは大きな間違いだよね…
「障がい」っていろいろある。脚が不自由な人ばかりじゃない。
目・耳・手はメジャーだけど、排尿排便だったり、匂いがわからなかったり、異常に汗かきだったり、逆に汗をかくことができない人もいて、身体的なものだけでもすっごくいろんな障がいある。
精神的な障がいまで言ったら、それはもういっぱいあって、でも外見では判らない状況もある。
加えて、それらの障がいは、手帳の有無にかかわらず、老いていくと大なり小なり必ず誰にでも生じてくる。
そして、さらに言えば
肉体的精神的にも何の患いもなく健康的な人だって、得手不得手があり、必ず何かしらあ「できないこと」がある。万能な人などいないのだ。
だからいろんな仕事があって、自分ができることで、できない人の「穴」を埋めて、その報酬で生きるとともに自己の存在意義を見出している。
そこには、上下関係なんてなくって、あるのはお互いを認め合うリスペクトと「感謝」なんじゃないかな?
報酬だって「感謝」を対価として表しているに過ぎないのではないかな?
私は仕事内容で人の上下・尊卑を決めつけない。
娘夫婦は今、トラック運転手をしているが、その仕事が医者よりも下だとは思っていない。
医者である兄もたぶん私と同じ意見だろう。
医者は人の命を預かっている崇高な仕事かもしれないが
トラック運転手だって、街の命を預かっている大事な仕事だ
あの大きな10tトラックをこの狭い日本の道で安全に運転できる人が、どれだけいるだろうか?
ひとたび運転を間違えば大惨事だ
彼らは街や道路にあふれる人の命を守りながら、物流という都市の生命線を動かしているのだ
最近は教師をバカ扱いしている人がたくさんいるけど、教師もすごく大変
勉強(学問)教えるだけじゃないんだよ
昔は家庭でやるのが当たり前だった「躾」を親の代わりにしないといけない
しかも、昔の親みたいに「口で聞かなきゃ体で覚えさせる」なんてもってのほか
さらにいえば、子がダメかと思えば、親が子どもみたいなモンペだったり
ひとたび問題があれば、すべて学校・教師のせいだとマスコミあげて徹底的に叩きまくる
やりづいらいことこの上ないだろうなと気の毒に思ってしまう
そんな世の中、
仙人以外、坊主神父も含めて誰一人として「他人に世話にならない生活」なんてできていないのに
「障がいがあることで、他人の手を借りることに卑屈になりたくない」ことを理由に
「他の人と同じように生活できて当たり前なんだから、手を貸してくれる健常者に対して感謝しないといけないとか卑屈になる必要はない」なんて
そんな屁理屈には賛同できないね
みんな平等というなら、障がい者だろうが健常者だろうが
できないことを他者にしてもらうことに「感謝」の気持ちをもたないといけないんじゃない?
「ありがとう」という言葉が、卑屈な言葉なのか?
「ありがとう」という言葉が、下から上に言う言葉なのか?
そうじゃないだろう?
障がいがあって他者の「世話になる」ことを卑屈に思う必要はない。
それは確かにそうだ。もっともな話だ。
だが
健常者から「してもらっている」のが当たり前で、感謝をしないといけない社会がオカシイというならば
その考え方そのものがねじ曲がっているような気がしてならない
車いすを押してあげる、手の届かないものを取ってあげる、筆談で会話する、手を取って誘導する…
「できない人」の「できない穴」は「できる人」が「できる範囲で」埋めてあげる。
それで社会が回ってるんじゃないかな? そこにお互いそれぞれへのリスペクトがあるんじゃないかな?
社会に生きる上で世話になる人に対するリスペクト…尊敬や感謝がなければ、それは傲慢だ。
その傲慢を堂々と「健常者は、障がい者が健常者と同等の生活ができるように支えるのが当たり前だ」と宣言するのであれば
言われた側からすれば、「次に何を要求されるか怖いのでもう助けません近づきません」って気持ちにもなるさ
そうなったとき
社会の一員として、世話になっている他者をリスペクトしながら共生している、多くの障がい者の方々から嫌われるのは誰なのか…
それが分かっていないのかな?
別に、誰も
障がい者に手を差し伸べたら感謝されて当たり前とは思っていない。
困っているのを見たから手を差し伸べているだけであって
「してやっている」とか恩着せがましく思っている訳じゃない。
自分だってそうなったら困るもの。お互い様だと思っているんだけど…
その昔、考古学で教えられたことがある
なぜ人の寿命が延びたのか?
旧石器時代、人の寿命は30歳程度だった
旧石器時代、人々は食べ物を求め旅をするが、老いたり怪我をして歩けなくなった者は旅から脱落して死んでいった
縄文時代、農耕はまだその先だとしても、縄文人は放浪の旅を辞め、狩りをする者、道具を作る者、子どもの世話をする者と役割分担をして、安定的に定住する術を身につけていった。そこで歩けない年寄り怪我人の寿命が飛躍的に伸びた。
その結果、年長者(経験者)→年少者(未経験者)への「知の伝承・蓄積」が可能となり、人類の進歩は加速した。
家族観や死生観、ムラという概念が急激に確立されていったのはこのころだ。
今の近代社会、高齢社会とは言われているが
若者・健常者だけで社会は回っていくのか?
高齢者は若者にとって邪魔者でしかないのか?
障がい者は健常者にとって邪魔者でしかないのか?
若者はいつまでも若者のまま ピーターパンなのか?
障がい者や老人が、自分にできないことをやってもらうことは当たり前なのか?
それぞれに できること「役割」があるのではないのか?
自分ができないことをやってもらったとき、
「感謝」があって お互いが分かり合えるのではないか?
人と人との関係が希薄化し、
義務を果たさず権利ばかりを主張するモンスターと言われる人が出現し
失うものがないがゆえに、「権利」という名目で「失うものがある者」の萎縮に付け込み声高に叫び要求する
「誰一人取りこぼさない」「平等・公平」が理想ではあるが、
大きな声のマイノリティの要求が、サイレントマジョリティを制限し心を萎縮疲弊させ
それが社会のルールとなり、心のない偏屈窮屈な社会へ変えていく
縄文時代ではないが、
もっとお互いがそれぞれの役割をリスペクトし、自分が他者から恩恵を受けたことは感謝をする
そんな社会であってほしい
縄文時代は大らかな時代で、1万年も続いたらしい。きっと今より精神的幸福度は高かっただろう
「手を差し伸べられたら感謝しましょう」
そんなことは、お礼を要求しているみたいで、サイレントマジョリティはなかなか言えない。
私は、本当は、障がい者にこそ、このことを発信してほしいし、そのことをマイノリティやノイジーマジョリティにわかりやすく宣言できる人たちではないかと思うのだが…
このX投稿者は違ったようだ
せめて、障がいをもつ人たち全員がこういう人ではないということは理解される世の中であってほしい