堀尾吉晴公銅像(松江市)
松江城大手前広場にある堀尾吉晴公銅像
2016年06月20日
堀尾吉晴は天文12(1543)年、堀尾泰晴の長男として尾張国御供所村(愛知県大口町)に生まれました。
幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、次いで茂助と改めました。父の仕えた岩倉織田氏が織田信長により滅ぼされると、早くから豊臣秀吉に仕え、長篠の戦い、備中高松城攻めに活躍し、山崎の戦いでは天王山を占拠して明智光秀を敗走させました。
賤ヶ岳、小牧・長久手の各戦に武功を樹て、秀吉の下で近江国佐和山4万石、遠江国浜松12万石へと出世しました。朝廷春宮坊護衛の長官を意味する帯刀先生にも任ぜられ堀尾帯刀と称しました。
容貌端正、性格温厚で仏の茂助と呼ばれた反面、戦場では勇敢に戦い鬼の茂助とも呼ばれた。秀吉の信任厚く、政務仲裁役である三中老の一人に任ぜられました。
秀吉没後は徳川家康に与みしたが、三河国池鯉鮒の刃傷事件で重傷を負います。家督を継いだ子の忠氏が関ヶ原の戦いに出陣し、その功で出雲・隠岐二国24万石を与えられました。父子は尼子氏の旧城富田城(安来市広瀬町)に入りますが、広い城下が見込め、交通の要衝である松江に拠点を移すことを決めました。城地をめぐり父子で意見が分かれたが、忠氏の急死後、吉晴は子の志を継ぎ、亀田山に城を築きその麓に城下町を造ることを決意しました。吉晴は秀吉も認める普請上手で、北の丸で指揮を執ったと伝わっています。慶長12(1607)年に着手し、5年目、城下の完成を目前に69歳で没しました。この像は、松江城の築城とその城下造成を指揮する、吉晴の雄姿で平成25(2013)年6月16日完成しました。像の高さは台座を含めて約6mあり、制作は松江市出身の彫刻家・西村文男氏です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H28.6.11
住所: 島根県松江市殿町
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