脇城(美馬市・旧脇町)
脇城は阿波九城の一つです。
脇城の構造は、南西方向に突出した舌状台地の東側を2重から3重の空堀で区画しています。
古文書などに散見される脇城に関する記述をみると、藤原仲房や三好長慶が築城もしくは改修したといわれています。
長宗我部元親の阿波侵攻や秀吉の四国征伐や蜂須賀藩政において西阿の戦略的要衝の城として機能していました。四国征伐では、秀吉からの指令の中で四国征伐の最終目標として一宮城と脇城の二城の名が挙げられていています。
武田信玄の異母弟とも言われ、三好家家臣となっていた武田信顕が城主となっっていましたが、天正7(1579)年に長宗我部元親が攻めよせ、調略によって岩倉城の三好好俊と共に信顕は長宗我部方に寝返りました。好俊と信顕は謀略によって三好方の軍勢をおびき出し、これを脇城下で全滅させました。しかし、この戦いの後、再び三好康長方についたため、天正10(1582)年再び長宗我部勢が攻めよせ8月に落城し、信顕と息子の信定は讃岐に逃れたが戦死しました。落城した後は長宗我部親吉が守りましたが、天正13(1585)年の羽柴秀吉の四国攻めに際して、羽柴秀次の軍に屈して降伏、開城した。親吉は土佐に帰る途中で土豪の待ち伏せに逢い戦死しました。
そして蜂須賀藩政期には、阿波支配の重要拠点の阿波九城の一つとされ、重臣の稲田植元が城主に置かれました。しかし、寛永15(1638)年、一国一城令で廃城となりました。
本丸には大きな井戸が残っており、のぞき込むことができます。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R4.4.2
住所: 徳島県美馬市脇町大字脇町
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