泉ガーデンと文豪永井荷風の暮らした偏奇館
投稿日 : 2024年04月23日
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皆様いつもご覧頂きありがとうございます(○・v・)
本日も華やかな画像とは裏腹の暗い話をしたいと思います笑
谷町や榎坂町の一部を再開発して出来たのがアークヒルズです。全日空ホテル(ANAインターコンチネンタルホテル)やサントリーホールなどがあります。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1845399/car/3513806/5221700/photo.aspx
そして
筆筒町の偏奇館の下の小さな谷を再開発して出来たのが泉ガーデンになります。背後の崖の上には戦前から住友邸がありました。由来になった泉屋とは江戸時代の住友家の屋号です。
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泉ガーデンタワーの片隅に昭和の文豪永井荷風の暮らした偏奇館のあったことを示す説明文があります。
偏奇館のあったところは御組坂を下った麻布の凹地で開発の手が及ばない土地でしたが、現在は泉ガーデンタワーが建っています。
泉ガーデンタワーが建つ前は長く空地のままで、坂を下りると壊れかけた木造の建物が散乱しているような場所でした。
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荷風文学の頂点である玉の井(現在の東向島)を舞台とした濹東綺譚(ぼくとうきたん)は昭和初期文学の代表としてあげられます。
若い娼婦のお雪と老作家の淡いロマンスを描いた荷風の私小説とも思しき作品の世界観に舞汰も魅了されます(○・v・) ちなみに1960年と1992年に映画化もされています。
画像の建物が本人が撮影した偏奇館になります。
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荷風は、高級官僚の父と母は著名な漢学者の娘という山の手のエリート家庭に生まれました。長男である荷風は生まれたときから一家の期待を担いますが成長とともに、親の意向に反する道を生きます。
就職した会社の米国支店勤務やフランス転勤もありましたが結局会社は辞めました。帰国して慶応大学に教授として迎えられますが、好きな文学の道に進むことになります。
この間、懸賞小説に入選し、『三田文学」の創刊に関わります。二度の結婚生活もうまくいかず、一度は父親の死を待っていたように離婚しています。
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永井荷風が偏奇館に住むようになったのは1920(大正 9)年 のことです。実家のある新宿余丁町の断腸亭を出て、一時築地に住んだ後のことです。築地のプライベートを保つこともできない下町の暮らしに嫌気がさして麻布に引越します。
台地の上で眺めがよく、近くの大きな屋敷の緑の豊かさと静かな雰囲気が気に入ったのです。建物はペンキ塗の箱のような洋館で、新築ではありませんでしたが大幅に手を入れて気に入った造りにしました。
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偏奇館には1945(昭和20)3月10日までの26年間暮らし、荷風にとって安住の地となる筈でしたが…
天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。(中略)二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと…(1945 昭和20 3.9)
東京大空襲により偏奇館は全て焼失しました。
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戦後の荷風は、市川市(千葉県)で居候の生活をした後に小さな家を購入して住み、やがてその近くに家を建てました。
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72歳で文化勲章を受章したあとも、東京・浅草のストリップ劇場に通い夜ごと踊り子たちと遊んでいたといいます。
亡くなる前日には、いつも通り自宅近くの食堂に行き、カツ丼とお新香と日本酒1合を平らげた永井荷風。翌1959(昭和34)年4月30日、胃潰瘍のため大量吐血し千葉県市川市の自宅の6畳間で79歳で孤独死しました。
本日も暗い話にお付き合い頂きまして笑
ありがとうございました━━ヽ(*´∀`*)ノ━━!
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