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ばつ丸21のブログ一覧

2016年06月19日 イイね!

知られていない日本の事 その1


時々、余り知られていない日本の事を書いてみたいと思います。

もっぱら、どこかのサイトから引用します。

今回は、韓国の趙甲濟(チョ・ガプジェ)さんの超少数派サイト(!)から、井戸の外のバンダービルドさんの一文。

昔、何かで読んだような気がしていましたが、最近、この一文に出会いました。

韓国発と言う所が嬉しいです。


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バンダービルド


ポーランドが親日的な理由


ポーランドは、ロシア、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパの強国に囲まれた国である。

1772年、1793年、1795年と、これらの周辺強国の勢力争いによって、ポーランドは領土が分割されて、挙句の果てに国自体が消滅する危機に瀕した。

領土分割で事実上国家の機能を喪失したポーランドは、ロシア領に併合された地域では、独立運動に乗り出したポーランド人が、本人はもちろん家族連れでシベリアに連行された。

第1次世界大戦までにシベリアへ連行されたポーランド人は5万人に達した。

ところが1917年にロシアで内戦が発生すると、シベリアのポーランド人は危険分子とみなされて虐殺されるなど、酷寒の地で試練を喫して次々と死んでいった。

死んだポーランド人の中には15歳未満の子供たちも多数いた。

その中には7歳、5歳、3歳などの幼児も多かった。

シベリアへ連行され、ついに死の直前に置かれた子供たちを、特にその中でも親の両方を失って大人の助けも受けられない境遇に置かれた子供だけでも、そこから救出できないかという考えで、外部にいたポーランド人が、 1920年に「児童救済委員会」を組織し、米国、英国など世界各国に支援を要請する手紙を送った。

しかし返事が全くなかった。

そんななか、ある国から唯一返事が来た。

ポーランドから非常に遠く離れた島国日本からだった。


児童救済委員会の代表「アンナ・ベロキュビッチ」夫人の懇願で、日本政府はほんの16日後に孤児を救済するとの意思決定を下した。

当時の日本は独立したばかりのポーランド(1918年11月独立)と正式な外交官交換もしていない状態であり、こういった意思決定は異例だった。

日本政府の決定で1920年7月、シベリアにいた765人のポーランド孤児たちがウラジオストックから船で日本に渡ることになった。


日本に到着した当時のポーランド孤児たちは、全員栄養不足の状態だったし、腸チフスを患っている孤児がいたし、頭はシラミでいっぱいだった。

全体的に最悪の健康状態だった。

文化や言語コミュニケーションなど、さまざまな面で孤児たちが不便なことを心配した日本政府は、孤児10人あたりにつき一人のポーランド人の大人を後見人として割り当てたいとして、別個でポーランド人の成人65人を招待するという配慮措置を下した。


到着と共に子供たちの服は熱湯消毒処理されて、代わりにきれいな服が新たに提供された。

特に細い子供たちには医師が割り当てられて、毎日栄養剤を服用するようにするなど、適切な措置が行われた。

孤児の歯科治療もした。

このような孤児を献身的に看護したのは、主に日本の赤十字社から派遣された看護師だった。

看護師の「松沢フミ」(当時23歳)さんは、腸チフスで重篤な状態に置かれた小さな孤児の一人を昼も夜も手厚く看護し、感染して死亡したが、命が危険だった子供は、この看護師の献身のおかげで劇的に生き返った。

1921年ポーランド政府は、死亡した看護師に赤十字賞を授与し、1925年には再度ポーランド政府が名誉賞を授与した。


1921年4月6日、孤児後援に熱心だった「貞明皇后」が孤児に会った。

当時4歳のある女児が皇后の隣に座ったが、皇后はこの子の頭を何度も撫でて励まして可愛がった。

そして、それから81年が過ぎた2002年、天皇と皇后はヨーロッパ歴訪に上がったポーランドを訪問することになったが、三人のポーランド人が天皇や皇后と対面した。

この時85歳の「アントニナ・ニーロ」(女)さんが皇后の手をしばらく握ってこう述べた。


「私が幼い頃に日本にいた当時、日本の皇后が私を励まして慰めて抱きしめてくれた記憶が、まだ今も鮮やかに残っています。」


当時の日本赤十字が作成した業務日誌には、かれら孤児のため、日本の寺院などが文房具やおもちゃなどを寄贈し、慶應義塾はこの子供たちのためにコンサートを開いたという記録が残っている。

当時、このポーランド孤児たちのため、日本全国から集められた寄付金は72万円を超えた。

今の貨幣価値に換算すると5億円ほどになる。

孤児たちが当時書いた日記が今でも残っている。


<毎日フルーツ、キャンディー、アイスケーキをたくさん食べる。そしておもちゃで遊ぶ。食べきれない残りを部屋の隅っこに置いておく>


真心が込められた温かい世話を受けた子供たちは、日本到着時の痩せた姿から急速に健康を回復し、徐々に明るい姿になった。

そして2年後、彼らは帰国した。

来るときはシベリアからだったが、帰りは祖国ポーランドへの帰国となった。

帰国のときに、彼らには全員洋服が支給されたし、航海中の寒さを配慮して、毛のついた暖かいベストが別途支給された。

出港当日の横浜港では、ずっと面倒をみた日本人ベビーシッターとの別れを惜しむ子供たちがたくさんの涙を流した。

子どもたちは船に上がって、「アリガト!」と叫んだ。

神戸港から出港する時も、横浜港の状況と似たような状況だった。

すべての子供たちが別れを惜しみ、出港した後は、船が見えなくなるまで手を振った。


子供を乗せて出港した船長は、航海中に毎晩ベッドを回って子供を毛布でしっかりと覆い、いちいち額に手を当てて熱の有無をチェックした。

この時の船長の手を一生忘れられないというポーランド人がいる。

1995年10月、駐ポーランド日本大使が8人の元孤児を招待した。

すべて80歳以上の高齢だったが、一人の健康が特に良くなくて、孫の支えを受けてやっと大使館に到着した。

そして涙を流しながら語った。


「生きている間に、日本の地に再び行ってみたかったのです。そして日本にいらっしゃる方々に、感謝を表したかったのですが、今は体があまりに不自由で難しくなりました。でも大使様からのご招待を受けて、這ってでも参加しなければならないという気持ちで来ました。なぜならここが、日本の領土と同じだという話を聞いたからです。今、日本にいる方に、この私の心を伝えることさえできるなら、私にはもう他の願いはありません。」


誰もが日本での思い出を大切にしていた。

日本の郵便はがきを収集したアルバムを大切に大事に保管していた人もいた。

日本人から貰ったお金を保管していた人、出港する日に港で貰った帽子を大事にしていた人、日本人から貰った聖母マリア像を保管していた人など、すべてが日本での思い出を大事にしていた。


日本のポーランドシベリア孤児救済の件は、ポーランド人たちによく知られているので、ポーランド政府から多くの感謝状などがあった。

その中の一つ「ポーランド国民の感激、私たちは日本の恵みを忘れずにいます」というタイトルの感謝状には、次のような内容が出てくる。


<日本人は、私たちポーランド人とは全くゆかりのない異人種である。また日本という国は、私たちポーランドと全く関係のない、地球の反対側の国である。それにもかかわらず、私たちポーランドの恵まれない子供たちを深い誠意で心から面倒を見てくれた。私たちポーランド人は、このことを心に刻み、決して忘れない。子供たちをお見舞いにきた裕福な日本人の子供たちが、自分が着ていた最もきれいで新しい服を子供たちに脱いで渡し、頭に飾った可愛いリボンなどの良い装飾品や指輪まで抜いて渡してくれたという事実を知っている。このようなことが一度や二度ではなかったことも知っている。私たち高潔なポーランド国民は、このような日本の業績を決して忘れない。>


ポーランド人のこのような心は、阪神大震災で確認された。

1996年の夏、地震の犠牲者30人がポーランドに招待されて、3週間歓待を受けた。

招待された中には、地震で親をすべて失って孤児になった子供も含まれていた。

当時4人のポーランド人元孤児が、招待された日本人にいちいちバラの花をプレゼントした。

ポーランドはその後の東日本大震災の時も、多額の義援金と共にさまざまな支援活動をした。

バンダービルド

引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=135547&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1

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最後まで読んで頂き感謝します。
人生いつも言訳。σ(^_^)

Posted at 2016/06/19 12:02:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 知られていない日本の事 | 日記
2016年06月15日 イイね!

もう始まった! 追記あります。さらに追記しました。


舛添が止めた途端に、早速、テレビが民進党の応援を始めた。


↓テレ朝とTBSに出演している一般女性という人。



同一人物やないかい。ヽ(`Д´)ノ

蓮舫押しか。

日本のテレビは本当に歪んでいる。



最後まで読んで頂き感謝します。
人生いつも言訳。σ(^_^)

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続報

この蓮舫押しの女性。

身元が判明しました。

ネット、恐るべし。

この女性は辛嶋友香里と言って、あの、反日団体のピースボートのスタッフ。

ピースボートと言えば、反日政治屋の辻本清美の関係。

分かり易い。

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さらに追記、しつこい。

遂に産経新聞のネット版にも出ました。

TBS番組「街の声」の20代女性が被災地リポートしたピースボートスタッフに酷似していた?! 「さくらじゃないか」との声続出

新聞自体にも書いてほしい→産経新聞社

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Posted at 2016/06/15 22:31:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 時事問題 | 日記
2016年06月12日 イイね!

箱根プチオフ


その苦行は、6月3日に来た一通のメールから始まった。

そこには、「突然ですが6月9日にプチオフをするので参加しませんか?」との事。

「MAZDAターンパイク箱根」や「芦ノ湖スカイライン」を走ろうと言う事の様だ。

まだ走った事の無い所だし、行ってみたい気がする。

しかも、世の中は平日だ。

定年退職者の良い所は、比較的時間が自由になる事。

悪いところは、お金が無い事。

さあ困った。

9日まで少ししか時間が無い。

それよりも、お金の算段をしなくてはいけない。

取敢えず、答えを保留して、お金の算段をしてみる。

ざっくり考えると、高速代とガソリン代で4万円ほど掛かるみたいだ。

高速は深夜料金を利用して安く上げれば、なんとかなりそうだ。

前日の深夜に出発して、箱根の近くで仮眠を取る様にすればいいな。

じゃあ行くか、と決めて、参加のメールを発信した。

後は天候次第。

雨だと参加は取りやめるとお願いをした。


さて、8日の夜、出発の時は曇りだ。

でも、9日の天気予報は雨。

まあ、向うに着きさえすれば、ドライブが出来なくてもいいかと思い、8日の23時半頃に出発。

三重のあたりで、雨が降り出す。

目が悪いので、夜間の雨は単純な運転でも自信が無い。

80km/h程度に抑えた速度で御殿場を目指す。

御殿場近くの駒門SAで仮眠をとる予定にしている。

自宅から約400km走って駒門SAに到着したが、トラックが一杯でうるさくて仮眠が出来そうもない。

計画を変更して、集合場所の小田原西のコンビニで仮眠を取る事にする。

5時半頃、コンビニに到着。

ウトウトしながら、みんなの到着を待つ。

集合時間は11時、大分寝られそうだ、と思ったが、このコンビニも結構うるさくて、余り寝る事が出来なかった。

まあ、しょうがないか、苦行だから。

それから数時間がたった頃、「背中には・・・」さんから、少し遅れるとのメールが来る、やれやれ。

そして、11時半頃、「背中には・・・」さん、「リュガ2000」さんが到着。

久しぶりに会う3人、話が弾む。

コンビニの前で話すのも何なので、「MAZDAターンパイク箱根」を通って、大観山に向かう。

僕のエンジンは冷え切っていたので、3速をキープしながら、霧で霞んだターンパイクを「景色がいいんだろうな~。」と思いながらをゆっくり上る。

最近、自動車関係のライターさんがGT3で事故を起こし、亡くなられたが、ターンパイクは、飛ばせばそれなりの速度で走れそうで、そんな時は危険なコースだと思った。

自分にはこんな高速コースは向いていない。

そんな事を考えながら13km程ゆっくり登ると、大観山駐車場に到着。

↓参加した3台。



平日なので、ガラガラのスカイラウンジで昼食。

他愛のない会話をして、それなりに楽しい時間を過ごす。

昼食後、駐車場で以前から気になっていた、「背中には・・・」さんの”AZ1改”にちょこっと運転させてもらう。

↓駐車場でAZ1改を動かす。





「う~~ん??」と言うのが僕の感想。

思う事があるので、「背中には・・・」さんには別にメッセージを送ります。

帰りは「芦ノ湖スカイライン」を通って、御殿場ICで解散、のはずが、先頭を引く「背中には・・・」さんがコースを逸脱。

誤って、「椿ライン」に入り湯河原温泉の先まで行ってしまう。

個人的には、一度「椿ライン」も走ってみたかったので、案外ラッキーだった。

気を取り直して、再度「椿ライン」を上り、「箱根峠」を通り「芦ノ湖スカイライン」へ。

僕は「ターンパイク」よりも「椿ライン」の方が、ちょこちょこしたコーナーが多いので好きだ。

でも、景色は全くと言っていい程見えない。

↓三国峠の展望台にて、雨と霧で何も見えず。



「長尾峠」を下り、御殿場ICを目指す。

県道401号線の下りは、濡れた路面と霧で極めて走りにくいが、自分の好きな感じのコースだ。

私が先頭で走るが、後ろを気にする余裕は無い。

出発前にタイヤの空気圧をいつもより高めにセットしたのが悪かったのか、グリップ感が変な感じ。

じわっとアクセルを開けているのに、唐突にパワーオーバーが出るのでおっかない。

国道138号線との交差点に着き、後続を待つがなかなか現れない。

嫌な予感(ひょっとして落ちた?)がしたので戻ろうとした時に、「背中には・・・」さん、「リュガ2000」さんが到着。

ちょっと安心しました。

3人で御殿場IC付近のファミリーレストランに入り夕食を頂く。

そこで解散となった。

自分は再び400km近くを走らなければならない。

雨の夜の高速道路、一番苦手な状況だ。

これも、苦行。

予算の都合上、高速道路の深夜割引を利用する必要があるので、ゆっくり帰る。

途中、清水SAと土山SAで仮眠を取り、自宅に着いたのは5時半。

雨の中、事故も無く帰れてよかった。

私にとって、数年ぶりのナイトドライブ。

ゆっくりなら、案外何とかなるんだ、と思った。

風呂に入り、朝飯を食べて、昼頃まで熟睡。


総走行距離:約950km、ガソリン消費量:約74リットル

使ったお金:約42、000円、、う~~ん。。。

でも、お金には代え難いひと時を過ごせました。

またミニオフをしましょう。


家内から、今回の遠征に補助金が出ました。

謹んでお礼を申し上げます。m(_ _)m



最後まで読んで頂き感謝します。
人生いつも言訳。σ(^_^)

Posted at 2016/06/12 18:05:40 | コメント(3) | トラックバック(0) | MR2 AW11 | 日記
2016年06月06日 イイね!

ねこ 譲渡会のお知らせ 大阪


次の日曜日の6月12日に、ねこの譲渡会があります。


大阪で猫ちゃんを飼いたいと思う方は、一度覗いてみはどうでしょう。

野良ちゃんばかりですが、殆んどの猫が避妊手術とワクチン接種がされています。

人慣れしている子もいっぱいいます。

子猫もいるし、大人猫もいます。

可愛いのもいるし、抱き心地のいい大きい猫もいます。

入場無料です。



↑おおさかねこネット

NPO法人 おおさか ねこネット 活動ブログ



最後まで読んで頂き感謝します。
人生いつも言訳。σ(^_^)
Posted at 2016/06/06 19:55:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ねこ | 日記
2016年06月05日 イイね!

そうなんだろうけれど。


僕の数少ないAWでの知り合いの一人、亡霊師ーさん。

最近こんなブログをアップされました。

「同じ条件で戦うのがスポーツ」


これを読んで、昔の自分を想ってしまいました。


以下に書くことは、亡霊師ーさんに対する反論でも、意見でもありません。

論争するつもりでもありません。

みんなの思いはそれぞれだから、色々な考えがあっていいし、そうあるべきなんだろうと思います。

日本は中国の様な自由のない国では無いんだから。


それで、その昔、何故あれほど一生懸命に時間もお金もかけてラリーに打ち込んだんだろう??

考え込んでしまいました。

亡霊師ーさんは、スポーツにはルールがあり、それはイコールコンディションだ、とおっしゃっています。

でも、僕はレギュレーション(ルール)の中で工夫をする事を否定しません。

それどころか、工夫する事が正しいと思っています。

特に、機材を使うスポーツ(自動車や自転車等)は、それが正しい事だと思っています。

僕は根っからの技術屋(自称)なので、機材を進歩させる事が大事な事だと考えてきました。(オーバーかな。)

そのためか、僕は一般的なスポーツには、全く興味がありません。

その理由は、一般的なスポーツは体格が物を言うからです。

まれに、小柄である事がメリットになるスポーツもありますが少ないようです。

アメリカのNFLの選手なんか、巨人ばかりです。

だから、僕は高校生になった頃には、「スポーツに全く興味なし人間」になっていました。

だから、今でも、有名(らしい)スポーツ選手の名前と顔が一致しません。

と言うより、全く知らなかったりします。

あっ、サッカーはちょっと好きです。

セレッソ大阪のサポーターです。(最近弱すぎる。)

昔の事ですが、ミスターセレッソ・森島選手のファンでした。

身長はたった168cm、スピードとテクニック、そして日本一頭の低い全日本代表選手と言われたその人柄。

小さい選手でも凄いのがいるんだと思い、セレッソ大阪のファンになりました。


困話休題。


話を元に戻して、何故あれほどラリーに打ち込んだんだろう?

初めてラリーの公認イベントに参加した時は、足にTOSCO(TRDではないよ。)を入れて、アンダーガードとラリー計器とロールバーを入れただけの車でした。

ノンスリはTOSCOの4ピニオンではなく、純正OPTの2ピニオン。

ラリー計器はクラブの先輩からの借り物でした。

運転は極めて下手でしたが、加入していたラリークラブの方針が、「練習するよりも実戦に出ろ。」でしたので、初めて出場したラリーは散々な結果だったと記憶しています。

成績は確か出走60台中の50位あたりだったと思います。

40年近く前の事なので、はっきりと順位は覚えていませんが、ビリに近い順位で完走したのですが、ゴール後の充実感は半端ないものだった記憶があります。

要するに「ハマった」と言うのでしょうか。

それからの10数年は、自分の給料の全てをラリーにつぎ込みました。

それに、弟まで道連れにしてしまいました。

ごめんね→弟。

本当に楽しかった。

Motorracing is my life.そのものでした。

毎年年末に、JAFから暫定の競技カレンダーが発表されると、正月休みには、その年の参戦計画を考えていました。

そんな人生を送っていました。

先輩のナビゲータが右方向を指さしながら、「次のY字を左!」と言われて混乱して、SSの途中で止まりそうになり怒られた記憶も、今では懐かしいです。

忘れられません、T木先輩。

今までに感じた事の無いこの「充実感」が、僕がラリーにはまった理由なのかもしれません。

それに、速い選手からは、普通では全く体験できない驚異的な車の動きを体験させてもらいました。

うちのクラブのトップ選手だったM口さん、全日本ラリーチャンピオンだったN尾さんの横に乗せて頂いた経験は、一生自分の体に刻み込まれています。

本当にありがとうございました。

あの体験は今でも自分の宝です。


ああ、またまた脱線。


僕がラリーにどっぷり浸かっていた頃は、排ガスやエネルギー危機の問題などが、世の中に色濃く漂っていました。

そのためか、エンジンの改造は不可となり、足と駆動系などの改造のみ許されていました。

そして、レギュレーション(ルール)の話です。

エンジンの範囲はどう定義するのか?

エンジンの改造は不可、ではフライホイールの軽量は良いのか?

当時、色々もめた記憶があります。

フライホイールについては、JAFから共通理解として、フライホイールの改造は不可、但し、カバーとディスクは自由、と通達が出て落着しました。

当然僕は、軽量クラッチカバーなる物を使いました。

で、エンジンの改造は不可だが、オーバーホールはいいんだな、と言う事で色々やりました。

いじり回すことが好きだったこともありました。

当時、チョコチョコ入賞できるようになった頃に使っていたTE71は、2TGと言うポピュラーなエンジンを使っていました。

僕の2TGは、弟が「ノーマルチューニング」を施しましてありました。

例えば、コンロッドは中古を多数買ってきて、バランスのあった物を選択するとか。。。

細かい事を積み重ねると、吊るしのエンジンとは全く異なった物になりました。

それでも、レギュレーションの範囲内です。

足は全く自由(構造を変えない限り)だったので、当時はまだ導入する人が少なかったピロボールを使ったコントロールアームを導入していました。

簡単な図面を書き、知り合いの鉄工所に色々作ってもらいました。

今では懐かしい思い出です。

金・銀・銅それぞれ1個づつ持っている (しか持っていない!) JAFメダルは、今でも宝です、と書いては見たが、どこにあるのか分からない( ;∀;)。

10数本あるトロフィーも宝です。

全て、処分せずに飾ってあります。

捨てたりは出来ません。


僕は当時、一生懸命やって、色々な良い思い出が出来ました。

死ぬ時に思い出すんじゃあないかな。

モーターレーシングにどっぷり浸かって、人生の一時期、充実した時間を送っていた事を。

僕はそう思います。


亡霊師ーさんの、イコールコンディション重視のスタイルを批判しているわけではありません。

それが理想なんだけれど、自分はだいぶ違うな、と思うだけです。

違うと言うより、出来ないな、と言うのが正しいのかも知れません。


人それぞれ、色々な考え方があります。

それはそれでいいんではないかと思います。

亡霊師ーさんのブログを見て、書いてみたくなりました。

亡霊師ーさん、友達をやめないでくださいね。


ちょっと、話題がそれますが、世界で最高の大学である、プリンストン大学やスタンフォード大学の場合、入学している学生の多くは富裕層の子息です。

もっと言えば、その中の長男です。

長女でも、次男でもありません。

それは、ハーバードでも、カーネギーメロンでも、コロンビアでも、MITでも、その他有力大学でも同じです。

最近はお金持ちの中国人学生が、金に物を言わせて大量にトップ大学に入学していますね。

残念な事に、アメリカでは名門でもお金が全てになってきました。

「100万ドルほど寄付しますよ~。」で、一発です。

そう言えば、東京大学の入学者も比較的高収入の家庭の子息が多いのも事実です。

高校時代に生活に追われ、バイトに明け暮れたら、勉強に割く時間がどうしても少なくなるのは当然です。

俗にいう一流大学に入った学生は、「自分が懸命に勉強して努力したから入れた。」と言うのですが、その人が勉強にあてた時間をバイトに取られたらどうだったのでしょう。

やはり、勉強に打ち込める環境があればこその結果である事は否めません。

スポーツは体格、学業は資産のある者が圧倒的に有利な事は、残念ながら動かせない事実です。

僕の感じる事は、「平等なんて存在しない。」と言う事です。

みんな違うんだから。



なにか、とりとめの無い文章になってしまいました。m(_ _)m

読み返してみて、何を言っているのか分からなくなっています。

申し訳ない。

それでも、何か感じてもらえれば幸いです。



最後まで読んで頂き感謝します。
人生いつも言訳。σ(^_^)

と、いつも最後に書いていますが、僕は、今が人生の黄昏時期にいるから書いています。

若い人向けに、昔の自分のモットーを書いておきたいな。


たゆまぬ努力に輝く未来!

最後まで読んで頂き感謝します。

Posted at 2016/06/05 16:42:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | その他 | 日記

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「猛獣チャロポン 奮闘記 その25 http://cvw.jp/b/1368450/47697469/
何シテル?   05/04 14:06
ばつ丸です。年寄りですがよろしくお願いします。 諸般の事情で59歳で早期定年退職してリタイヤ生活をしています。 古いMR2/AW11を新車時から少しずつ手を...
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