・序
「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した
何が足りなかったかといえば、科学的精神の欠如
直感的事実にのみ信頼を置き、推理力による把握を重んじない民族性向
何がそうさせたかというと250年に及ぶ、近世精神からの隔離
250年の変化が大きかった分、急速な輸入でつじつまを合わせることはできなかった」
で始まる、戦後間もない時期に出版された本ですが、読んでみてそれから70年近く経つのだけれども、今も何も変わってないかもしれないな。
・東進と西進による新たな発見(アメリカ大陸、地球は丸いの確認)
十字軍はヨーロッパは統一的な一つの世界という自覚を与えた。
イタリアルネッサンスの本質的特徴は、個人の発展、古代の復活及び世界と人間の発見において認められる、つまり外界を客観的に見て自己を独立の個人として自覚し始めた。イタリアルネッサンスは争闘と残虐に満ちた環境で起こりえた、積極的創造の功績の前には社会の分裂や不安の如き半面の欠点は忍ばなければならない。
対して、東亜の格物致知は近代の黎明を示し、羅針盤や火薬を発明したにもかかわらず、思想の自由と無限追求の精神を描いていたため、近代科学は起こらなかった。
視野の狭小に基づく冒険的精神の欠如がこれらの素材を生かせなかった。
・室町を経て安土桃山、江戸時代初期のキリスト教伝道と日本文化
鎌倉時代の文化は高く評価して良いが、武士も内乱を背景としてのみ発生し、西洋におけるが如く異民族、異なる文化圏との対立で発生していないが故に、外への衝動は起きず、蒙古襲来も受動的閉鎖的な態度での回帰に留まった。我が国の室町時代には能楽、茶湯、連歌も作られ、歌舞伎や浄瑠璃の次代の創造の基礎を作ったのだから素養はあったはず。
山口のキリシタンの熱心さから窺えれるのは、日本はキリスト教伝導に最も適した国。カナ文字文芸作品によって、旧約、新約聖書の物語を自然に受け入れる下地があったのだと。
フロイスは信長に会ったが、信長の興味はヨーロッパの文明、新しい知識、特に武器であってキリスト教ではなかった。鉄砲を決定的勝利の道具としたのは信長が初めてから見て取れる通り。信長にとって、キリスト教が彼に反抗しない限り、布教を禁止する理由はなかった。信長の時代、日本民族が世界的視野を持ち、近代の精神的発展の仲間入りをする望みはあった。16世期の武士は新旧いずれにも囚われない自由な態度が特徴。もし信長が暗殺されなければ日本の運命は相当変わったものになっていただろうと思う。
秀吉(海外、特にヨーロッパに信長と違って何の興味も持たなかった)、家康が国家統一を果たしたのちは、アジアの狭いエリア、もしくは国内限定の視点しか持ち得ず、当時海外に出た日本人(シャム:今のタイ、カンボジアなど)は多かったが、時の国家は後援どころか抑圧した。つまり政権の安泰を第一優先とした。秀吉の刀狩りは下克上の可能性と町人の発展の可能性を押しつぶしたし、キリスト教禁教も保守回帰運動の一つと考えられる。秀吉は自分が旧習を打破したにもかかわらず、自ら築き上げた体制の維持に回ったとと言うこと。
林羅山のような固陋な学者精神を以て、時代の指導精神とするのではなく、フランシスベーコンのような思想を眼中に置いた学者が新たな日本人の創造を導いたはず。
林羅山は御用学者でしかなかったということ、いつの時代も御用学者はいるのだけども。中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎などはその可能性があった学者である。
無限探究の精神、視界拡大の精神が目覚めなかっただけであるとで、詰まるところ、ヘンリー王子が日本にはいなかったのだと。
・結語
”鎖国250年の影響は、国民の性格、文化の隅々に及んでいる。わずか80年ではこの250年の時間は克服し得ず、長期の孤立に基づく著しい特殊性故に新しい時代における創造的な活力を失ったかに見える”とありますが、この本の書かれた昭和25年と比較して現在が進歩しているわけではない。
「未完の明治維新」という本もありますが、明治維新から太平洋戦争終結まで(およそ80年)の流れは明治維新の続きと捉えた方が良いだろうと思う。
戦後になって日本人の思考が変わったかというと全くそうはなっていなくて、例えば職業選択で公務員人気が一番、もちろん公務員も必要だけどそれだけで国は成長しないし、というのは今日と同じ明日があるという鎖国時代の意識と何ら変わっていないんだと言えるだろうし。
また、日本の産業として物づくりが中心になってソフト産業が成立しないのも、江戸時代からの産業の流れをそのまま引き継ぎ、ソフト産業で必要な世界で仲間づくりをする能力の欠如だろうし。余程の環境変化がないと安楽死の可能性が大きいか。
Posted at 2019/12/21 18:38:03 | |
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