お盆休みは14日から今日までです。
ありがたいことに忙しく遊べたので、最後の日はゆっくり休んでいます。
高校時代のクラスメートが佐賀大学で教鞭を取っているのですが、久しぶりに帰省したようなので、皆で飲みに行きました。
文化教育学部の先生なので、いわゆる「先生を教える先生」ですね。
過去の論文に加筆して、本を出版したそうです。
「へ~。この本いくらすんの?」
「ホントは2700円なんやけど、おれから買うと2500円(笑)」
でた!大学の先生あるある!(笑)
「構想力を育む国語教育」(渓水社)
読んでみると、クルマ遊びにも通じるところがあるかなと思ったので、序文より一部抜粋します。
ざっくりで言えば、国語を教える先生達はこれまで「どの教科書を使おうかな」とか「授業の仕方をもっと工夫しなきゃ」ということには多くの関心を持ってきたけれど、そもそもの目標(授業をとおして何をしたいのか)に関してはあまり議論がされてこなかった、というような趣旨です。
読み飛ばしちゃ嫌よ(笑)
「国語教育の基本構造は、国語教育の目標・内容・方法・評価の展開過程として捉えることができる。(中略)しかし、国語教育においては、目標よりも内容(教材)や方法(指導法)が先行するという現状がみられる。(中略)目標論は、国語を教える立場=教師や研究者らによる、めざすべき学習者像を明らかにする議論として展開してきた。そのため、国語教育目標論は主に国語を教える側に立脚した議論となっており、国語を学ぶ立場の視点が目標論に対してもつ意義や役割は、満足に問われてきたとはいえない。(中略)これからの国語教育目標論は、教える立場が主役の論から、学習者の立場を巻き込んだ論へという拡充を図ることが求められる。国語教育の目標を考えることと、学習者の国語学習が充実することとを結ぶ鍵が、ここにあるように思われる」
日々のお仕事……教材や指導方法にばかり気を取られるのではなくて、あるとき立ち止まって、目標についてもしっかり考えてあげることが大事なんですね。
例えばサーキット走行をしていると、自分のマシンの性能を試せて楽しい!改造してタイムが上がったので楽しい!というワクワク感がありますね。
最初はとっても楽しかったのに、でも途中から「タイムが出ない…」と楽しくなくなってきて、どんどんお金をかけてタイムを良くしていこうとしたとする。
それが1万円や2万円で済んでいた頃は良かったのだけど、どんどん金額が上がるにつれて負担が大きくなり、なんだか楽しくなくなってしまって、もういいや、って…………そういう話を聞くと少し残念な気持ちになっちゃいますね。
クルマ遊びにはいろんなジャンルがあって、ただガレージで眺めてるだけでシアワセなの~って人も多いでしょうし、週末のドライブに出かけるのが楽しいよって人も多いでしょうし、僕のようにたまにサーキットに遊びに行く人も多いでしょうし、その中でもトップレベルの人達は頂点を極めるために、シビアな世界に身を置く人もいるでしょう。
ただ、それが「遊び」である限りは、楽しめることが一番大事ですよね。
必死に努力を重ねてライバルと凌ぎを削ることが楽しければ、それもよいですし、たまーにサーキットへ遊びに行って、あー楽しかった♪でもよいと思います。
僕の場合は、実はそのどちらでもありません。
サーキット走行を始めたきっかけは「サーキット走行してる人達はどんな感じで運転してるんだろう?」ということに興味があったからです。
走り始めると、足回りに不満を感じたので、ほどなく「どうやったら満足できる足回りになるかな?」ということに興味を持つようになりました。
それが一段落する頃には、自動車工学そのものに興味が出てきました。
やがてそこそこのタイムが出せるようになってくると、「頂点を目指すような人達はどんな世界を見てるんだろう?」ということにも興味が出てきました。
「知的好奇心を満たすため」といった感じでしょうか。
そのときどきで、興味のあることが出てきて、そのことを知りたくなるので、お勉強したり実際にそこに身を置いたりしてみます。
ぜーんぶ楽しいですよ(笑)
足回りがうまくセッティング出来なくてウンウン悩むのも、難しい本がなかなか読み進められなくてウンウン悩むのも、思い通りの走りが出来なくてウンウン悩むのも、ぜんぶ楽しい(笑)
もしもそれが楽しく感じられなくなったら、一歩引いて自分を見つめてみないといけなくなる時が来るかもしれませんね。
興味の対象がヒトと違うことが多いので、あまり他人様の役に立てたりはしないのですが、ときどきここで面白い話とか、ためになる話でも書ければいいな、と思っています。
ところで国語教育が抱える課題についてよく読んでみると、やっぱりサーキット走行にもよく当てはまるなぁと思うところが多いです。
これはどの分野でもよく言われることだと思いますが「目的と手段が逆転してはいけない」ということ。
雑誌やインターネットでは具体的な運転操作の方法について、こうやって荷重移動するといいよとか、こういうハンドル操作をしなきゃいけないよとか書いてあります。
それはそれで良いのですが、クルマは荷重移動しすぎても遅くなってしまうし、ハンドル操作も「送りハンドルは絶対にだめ」とか何とかって話になると、手段が目的になってしまって、何だかそもそもの目的を見失った議論になっていくように感じます。
荷重移動もハンドル操作もそのほかの操作も、速く走るあるいは思い通りに走るための手段に過ぎませんので、「何のためにそうするのか?」がまったく抜けてしまうとおかしなことになってしまいますね。
身近にいる中には僕がそう感じた人はいないので、どうでもいいと言えばどうでもいいのですが、出来ればよりたくさんの人が目的を見失わずに運転技術を磨いていけたらいいなぁと思っています。
また、上記抜粋の中に
「目標論は、国語を教える立場=教師や研究者らによる、めざすべき学習者像を明らかにする議論として展開してきた。そのため、国語教育目標論は主に国語を教える側に立脚した議論となっており、国語を学ぶ立場の視点が目標論に対してもつ意義や役割は、満足に問われてきたとはいえない。」とありますが、最近はこういったことも大事だなぁと思っています。
なんというか…なんでしょうね。
ドライビングテクニックについて語られる際、理想的なクルマの挙動や、具体的な操作技術にばかり関心が集まってしまうことに対し、ちょっと違和感を感じるようになってきました。
その人その人の運転レベルに応じて、都度求められることは違うということと、また人間側の性能には限界がある中でどうやってやりくりしていくかということについて、あまり満足に議論されてこなかったように思います。
黒沢元治さんの
「ドライビング・メカニズム」(主婦と生活社)の中に、人間側の性能の限界についていくらかの言及がありますが、ああいったことがもっとホットに議論されるとすごく楽しいんじゃないかなぁと思うんですけどね。
というわけで、僕にとってよい刺激になりました。
「構想力を育む国語教育」(渓水社)
皆さんも興味がありましたらぜひ買ってあげてください。
ひとり3冊ね、読む用と保存用と鑑賞用ですよ(おいおい。笑)
今なら特典として、高枝切りばさみとタンスがついてきまs……ってお前いつもこのオチやな(笑)
Posted at 2014/08/17 11:23:31 | |
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