免許更新行ってきました。今日のブログは、その話と。
あと、後半は僕のおもうこと。 むしろこっちが僕がいま書きたい事。
むしろ 後半読んでもらいたいかも。
今回人生初のゴールド免許!!
なんとなく顔もぼかしといたw
ゴールドなんて、自分には関係の無いものとおもってました。
最後の違反が丁度誕生日数日前だったせいで、免許更新二回分 違反者講習受けました。
僕の中では、5年無事故無違反なら 一度違反者講習の更新して 次は5年経つから ゴールドだろとおもってたら
そのときもまた違反者で、なんで?と不満でしたが、誕生日から40日遡った日から過去5年というからくりのせいで、ギリギリ入ってしまったんですねー。
ていうことは、ゴールドになるには、さらに次の更新まで違反なく過ぎなくてはならない。
そんなん、自分にはとうてい あり得ないことだよなと、はなから諦め。
ゴールド免許なんて、ペーパードライバーだろ。 クルマに良く乗ってたら無理無理。デフォルトがブルーw
くらいに捉えてたんですが
そんな自分もいつのまにか 年月が経過し。
2010年のスピード違反以降、無事故無違反で 今回ゴールドもらいましてね。
たかが、免許なんてとおもって、更新にいくのも面倒くさいくらいに捉えてたんですが。
いざ、講習がおわり、免許をうけとると、とても嬉しかったですw
でも、人生なにが起きるかわかりません。気をつけたいですね。
ところで、全然違う話題ですが。
たまにね聞かれることがあります。
セッティング内容とか、アライメントのセッティングの数値とか。
ぼくはね すぐに答えを人に聞く姿勢にたいしては、どちらかというと否定派です。
ひとそれぞれ、方針や考え方があるとおもうけど。。。。
たしかに、人にすぐ聞いた方がいい「場合」もあるよ。一概に決めつけて言えない。
「なんで、そんなこと、自分でなやむまえにオレに相談しなかったのだ!!!!!」
と怒る上司もいるでしょうし
「そんなの、自分で調べよろ」って 冷たくあしらう上司もいるでしょう。
このまえは、自分で考えろって怒ったくせに、自分で考えてたら相談しないことを怒鳴られた。
理不尽すぎる・・・・・・と 心を潰されることもあるでしょう。それは
でも、やがて わかるようになってくる。
時と状況により、これは 聞くべきこと、自分で考え悩むべき事 などの判断とか。 タイミングとか、使い分けとか。もちろん、単にその上司がブラックなだけというケースもある。
いろいろなことが、その理不尽な経験のなかにもヒントがあって。
そういう労苦から、逃れることは、できない。 もし、仕事で逃れたとしても。
その分他で苦労することになる。
労苦の総量は 変わらないかもしれない→(わりと自分に言ってるwww)
っていう、考え方です。面倒くさいですかねw
とくにクルマはね、 若い走り屋がいると、おじさんどもが寄ってたかって あれこれ教えたりするでしょう?
あれ、どうなのかなっておもう。
なんで、始めから 答えを与えちゃうの?もっと 本人に自力で学び、気がつく機会を与えてやれよと思う。
結局、おまえらの自己満足、マウンティング行為じゃねーか と。
端からみてて、おもってしまうことも、たまにあります。
そういうのを恥ずかしいとおもうようになったので、自分はあえて避けるようになった。
まあ、そういう僕の感覚は、 理解されないこともおおいし、
ケチな人、冷たい人って思われがちですがw
まあ、
だとしても、いいです。
僕だって、すべて自力で、経験んして得たものではないけど。
人のブログや、コラムを読みあさったり、計算してみたり、本を買ったり そこに自分の経験などから。
(昔からのぼくをみてるひとなら、わかるよねw すごかったよね、エイトのアライメントとかw)
寝てもさめても、それについて考えたりしているうちに、段々答えに近づいて来て
そこに、自分なりの考え方や推理などを織り交ぜて、 試してみて。 結果を吟味して。そこからさらなる答えを得る。その繰返しの末に、得た知識だったりするわけです。
そして、そういう プロセスがあるからこそ、
人にきいたとき、教えてもらった事の真意なり、その話の要点、コアな部分をただしく理解出来るための素養というか、土台ができるとおもうんです。
クルマなんて、自分がヤル気になれば、いくらでも知識、ヒントはタダで得られますよ。
ただ、肝心の答えそのものは 手に入らない。それは自分で探さなきゃいけないものです。
レーシングドライバーは、運転だけで来ても駄目ですよね?
むしろ、そのクルマのどこをどうしたら、もっと良くなるかを的確にメカに指示出来たり。
でも、それって判るためには、ある程度 機械やセッティングの知識がないと出来ないよね?
逆に、メカやピットからの指示を理解するために、その素養となる知識がないといけないよね?
トーは、何に効く? キャンバーは?なんのため? タイヤの使い方は?熱は?走り方、サスセッティング。
全部 融合したものが必要で、そのうえで、走り方を組み立てたりする。
つまり、セッティング能力も、速いドライバーの能力のひとつ。
だから、大事。
もし、期待すればするほど、安易に答えを教えない。
本人の 気づきや、学びの機会が大切。
多少、遠回りするのを、手を出さずに、じっと 我慢して見届けることこそ、愛情。
その方が、長い目でみたとき、 可能性が伸びるから。。。。
僕はそういう想いもってます。
ほんとうに伸びるなら、きっと 自分で悩み出す。
結果、僕が答えをすぐ教えた以上の知識なり結果をえるときがくるし。
もし、安易に教えてもらってばかりの人に、教えても、
以外と、その後 伸びないまま、 諦めたり、やめちゃったり、するもんだ。
本当にやるひとは、結局やるからね。
当人が、多少 試行錯誤して、やっと答えに近づいた時、ちかずこうとしてるときに
「そっちの方向で正解だよと」 サインを出す事はしてるとおもう。
それに、自分が正しいとおもってることが、もしかしたら間違いかもしれない。
だから、安易に結論として人にアドバイスなんて出来ない
その人なりの正解にちかずくための、手助けならしたいよ。
でも
ここまで長々と書いた事を、根底から ひっくり返すようなことも、あえて付足すが。
いま 世の中 スピードが速いし。変化が速い。
いちいち 一個一個に時間をかけてる場合ではなく。
すでに出来たプロセスをどんどん ケチらず、共有したほうが、繁栄するという考えもあるし。
それも一理あるんだとおもう。
自分なりに努力して得たノウハウを、一切惜しまず公開しまくる。
そして、他の人も それを公開することにより
加速的に 共有が繁栄を産む。 そういう時代なのかもしれない、今は。
まあ、それも ケースバイケースでしょうね。
僕の考え方は、もう古いのかもしれない。
でも、いまのところ、自分の考え方をかえるつもりはない。
ぼくは、寿司職人とかの、食器洗いだけで何年とか あるいみ 無駄だとも 必要だとも、おもってる。
最初から、にぎることを教えたほうが、早いのは確かだろう。
そういうの、経営者の方針で結構人によって違う。
回転寿司なんかだと、はじめから教えたほうがいいだろう。
でも、久兵衛みたいな寿司屋では、きっと 教えないだろうな。
皿洗いというその期間があるからこそ、学ぶ事がいろいろあるのではとおもう。
これは、寿司だけじゃない、フランス料理だって、他のも。
いつまでも「球拾い」させてるだけの時代背景もあったとはおもうが。
球拾いなんかやってても、テニスも卓球もうまくならない。
水を飲まないで、グランド何周しても、カラダを苛めるだけで、大会に勝てる訳じゃない。
僕は部をやめて、 その後 友達と市民体育館でコートを借りて
遊びでゲームをやってた時代が一番 卓球が上達した。
卓球で強くなるのは、早いうちから打たせるべき。球拾いなんて全然上達しない。
そういういう、昔ならではの 無駄もあるとはおもうけど。
わからないことや知りたい方法があったら、 とっとと人に聞いて回るほうがさ
聞かれた方からも、自分に頼ってきて可愛い奴ってことで、愛されて面倒みてもらえたり。
田舎の集落へいって、農作物の育て方農業の始め方なんかだと、聞いて歩くほうがいいだろうし。。
でも、その場合、教えてもらったことを無償だとおもってはならないだろう。
してもらったことは、それ以上にして返すという 心得がないと、そのうち村八分になるんじゃないだろうか。
聞いてまわることによって、いろんな人とコミュニケーションとれたり。その結果、副産物的に他のことを知る事ができたりして。
結果的に、そういう 僕がおもうところの 安易な人のほうが、 出世してるというか、達成してる気さえして、悔しい気持ちになることも多々あります。
だから一概にいえない。
まあ、自分でなんも考えず。聞いて回って 進むのだって。
それらしてもらえたことに、ちゃんと なにかしらの形で
恩返しするという、感謝の気持ちがちゃんとあるのなら いいのかもしれないね。